ぶらり歩き

27. 古河を歩く                                        平成23年12月24日

 今年4月から歩き始めた鎌倉街道中道ウォーキングも昨日、無事古河宿に辿り着き、めでたく完歩することができた。昨夜は、一緒に歩いたSさん、Kさんと古河駅前の居酒屋で祝杯を傾け、のんびりと古河に一泊した。

 今朝、ホテルで朝食を一緒に摂り、Sさん、Kさんはそれぞれ予定があり、帰途に付いたが、小生は古都・古河を2時間かけて散策した。昨日と同様に雲ひとつない快晴、しかも風がまったくないため寒さはほとんど感じない。まさにウォーキングには快適な小春日和の気持ちのよい天気となった。

 JR古河駅から出発し、鍛冶町通りを西に歩き出すと、通りの両側には商店の古い建物がいくつか目に付く。そんな建物の一つが移築作業を行っている。作業準備をしていた作業者に伺ったところ、道路の拡幅工事に伴い、古河市の文化財に指定された商店の建物(写真1)を移築するという。初めて建物の移築作業の現場を見たが、建物に不均一な変形を与えないために鉄骨材、楔(くさび)等が多数用意されていて、大変な手間隙がかかるものだと実感する。

 鎌倉街道中道、江戸時代の日光街道でもあるが、を越えて杉並通りに入ると、江戸時代の武家屋敷を感じさせる漆喰塀(しっくいへい)を残す屋敷(写真2)が現れる。門前では竹箒を手にした女性が朝の掃除に余念がない。この雰囲気のせいか、古河は人の温もりに溢れた町だと気が付く。そして、足許を見ると、道はアスファルトではなく、雨水を地面に浸透し易いインターロッキングブロックで舗装されていて、足元からも暖かい感触が伝わってくる。

 のんびりとした気分に浸りながら、参宮道路に入り、突き当たりにある雀神社(写真3)に参詣する。境内では、正月の初詣に備えて石畳の整備をする職人、拝殿への渡り廊下の屋根を点検する職人などが忙しそうに働いている。雀神社の創建年代は明らかでないようであるが、一説には貞観年間(859年〜877年)に出雲国出雲大社から勧請したといわれている。現在の社殿は慶長10年(1605年)に古河藩主松平康長によって造営されたものという。

写真1 移築作業中の商店建物 写真2 武家屋敷の漆喰壁 写真3 雀神社



 
 神社の西側には渡良瀬川の土手が築かれていて、万葉集に掲載された許我(古河のこと)を詠う歌二首を刻んだ石碑が建ってられている。この歌からも古河が万葉の時代から渡良瀬川の渡し場として開けていたことがわかる。因みに、「まくらが」は許我にかかる枕詞である。

  まくらがの 許我の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに

  逢はずして行かば惜しけむ まくらがの許我こぐ船に君も逢はぬかも

 土手には足尾銅山の鉱毒問題に取り組んだ田中正造遺徳の賛碑(写真4)が建てられている。石碑の背後はゴルフ場のクラブハウス、手前は渡良瀬川の河川に展開するゴルフコースが設けられており、そのアンバランスに時代の変遷を感じさせられる。

 ここから、歩いてきた方向に戻りつつ南下し、古河藩校盈科堂跡(えいかどうあと、写真5)を探すが、なかなか見つけることができず、困っていると、家から出てきた女性が親切に教えてくれる。何のことはない、見当をつけて通り過ぎた鎮火稲荷社の場所が盈科堂跡で、よく見ると石碑が建てられている。盈科堂は宝暦12年(1762年)に唐津藩の土井家が古河に移封されたとき、藩主の土井利実が唐津藩の藩校をそのまま移したものである。
 更に南に歩いていくと、古河城の追手門跡(写真6)に出る。室町時代の足利成氏に始まる古河公方の拠点、江戸時代の日光道中の宿場町の中心として存在した古河城は、明治6年(1873年)に発布された廃城令によって建造物がすべて破却されたため、その姿を見ることができない。そのため、追手門跡の場所に立っても、住宅が軒を連ねる周囲の景観から城郭をイメージすることはできない。ここでも、インターロッキング舗装の道が存在しない城を思い出させる温もりを醸し出している。 

写真4 田中正造遺徳の賛碑  写真5 古河藩校盈科堂跡石碑 写真6 古河城 追手門跡




 次に、渡良瀬川が接近する辺りにある古河城御成門跡獅子ガ崎の土塁(写真7)を訪ねる。追手門からほぼ真南に位置しているが、ホテルで入手した案内図通りに歩いているのだが、行きつ戻りつして、やっとのことで獅子ガ崎の土塁を見つけることができた。土塁がその形のままで残されているものと想像していたが、柵で囲われ、竹が植えられた小高い丘状の場所が土塁とはなかなか気付かなかった。説明板によると、古河城は渡良瀬川の河畔に建ち、周囲を堀に囲われた水の中に浮かぶような城であったと想像されている。しかし、城の一部でも残っていれば、往時の城下町古河、そして宿場を直接的に伝えることができたものと思われ、残念である。

 古河城獅子ガ崎の土塁から東の、往時には堀の外側に当たるところに建つ長谷観音(写真8)を参詣する。明応年間(1492年〜1500年)に初代古河公方足利成氏が鎌倉の長谷観音から勧請した木造十一面観世音菩薩像が安置されており、日本三長谷の一つと言われている。因みに、一本の楠から彫られた十一面観世音菩薩像を持つ奈良の初瀬長谷観音(楠の元木)、鎌倉の長谷観音(楠の中木)、古河の長谷観音(楠の末木)を日本三大観音というそうである。現在、長谷観音の境内は狭く、往時の荘厳な伽藍の面影を偲ぶことはできないが、古河城の鬼門に配置され、歴代の古河藩主の崇拝篤い寺院であったという。

 これで、計画していた見物箇所を見終えたので、古河駅に向かって帰路につく。長谷観音の西側の道を北上し、少し東に入った古河第一小学校の前に、古河藩主土井利厚、利位の二代に仕えた家老鷹見泉石(たかみせんせき)誕生地の石碑(写真9)が建っている。長谷観音の近くには、鷹見泉石記念館が建てられ、遺功を讃えている。

写真7 古河城 獅子ガ崎土塁 写真8 長谷観音 写真9 鷹見泉石誕生地の石碑




 また北上して突き当たりを東に曲がり、古河駅前に出る道沿いに、小説家永井路子が幼少期から20年間を過ごした江戸時代末期に建設されたという旧宅(写真10)がある。現在は、東日本大震災で建物が被害を受けており、閉館中であるのは残念である。古河の町を歩いてみると、永井路子がここで育ったことに違和感なく頷ける。
 駅に向かい、日光街道に出たところに本陣跡の石碑(写真10)が建っている。本陣は建坪117坪の大規模な建物であったというが、現在は二階建てのモールのような建物が建っている。日光道中の反対側には高札場跡の石碑(写真11)が建っている。説明板によると、古河宿は道幅五間四尺(約10m)、全長十七町五十五間(約1,850m)にわたって旅籠、茶屋などが軒を連ねていたそうで、大層賑わった町であったことが偲ばれる。

 古河駅に戻り、この2時間余りのウォーキングを振り返ってみて、古河のほのぼのとした暖かさと落ち着きに魅了された気持ちに満たされている。古河がとても好きになってしまった。また訪れてみたい。

写真10 永井路子旧宅 写真11 古河宿本陣跡 石碑 写真12 古河宿高札場跡 石碑



 

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